決定論が自由意志を脅かす,という話がある.
ただし,そこで前提にされがちな決定論は「認識として」扱いにくい.
ここで言う認識とは,確かめ方があり,反証可能性があり,議論の前提として安定して使える,という意味での認識である.
その条件を満たしにくい仮定に,大きな認知リソースを注ぎ込むのは,資源配分としては無駄になりやすい.
この点をはっきりさせるために,決定論という語の内訳をいちど整理しておく.
大森荘蔵は,宿命論的な言い回し――たとえば「そう行為したのなら,そうなるように決まっていたのだ」という型――を,説明内容を増やさない点で「空虚な決定論」とみなし,無内容なトートロジーに近いものとして扱った.
こうした型は,たしかに自由意志否定の根拠としては弱い.
否定の根拠になりうるのは,むしろ「法則+状態から未来が一意に定まる」といった強い決定論の方だが,それもまた私たちの有限な観測と計算という認識条件のもとでは,真偽を確証可能な前提として運用することが難しい.
したがって,決定論の形而上学的真偽を中心に据える議論は,認識上の利得に比してコストが膨らみやすい.
一方で,自由意志の検討には,より直接に扱える論点もある.
たとえば,行為が理由に基づいているか,外的強制がないか,反省や学習で行動が変わりうるか,といった点である.
これらは観察や制度設計の議論に接続しやすい.
したがって,決定論の真偽そのものに認知リソースを集中させるより,認識可能で実践的含意のある論点に焦点を移す方が,議論の生産性は高い.
ただし,ここで話が終わるわけではない.
決定論が認識論的に扱いにくいとしても,自然科学や社会科学の知見は,自由意志という概念の取りうる形を大きく制限しうる.
意思決定が多様な要因(環境,学習履歴,衝動制御の限界など)に強く依存するという見取り図が強まるほど,「自由意志」という語に載せられる役割も見直しを迫られる.
この点からすると,重要なのは,決定論の真偽を確定することよりも,むしろ「自由意志がない(あるいは,道徳的責任を基礎づける種類の自由意志はない)人生や社会」をどう考えるか,という問題になる.
たとえばDerk Pereboomは,決定論の真偽にかかわらず道徳的責任を基礎づける自由意志を否定する立場から,それでも規範や意味が直ちに崩壊するわけではない,という方向で議論を組み立てる.
そしてTed Honderichのように,決定論を前提に置いたとき,その帰結をどのように受け止めるかを中心に論じる立場もある.
こうした議論が示すのは,「決定論が真か」を決められないとしても,「自由意志なし」を想定したときに何が変わり,何が残るのかを検討すること自体は,十分に重要だということだ.
以上