現象学的還元の方法としての現象学的デッサン

この記事は2022/11/11(金)の日記を編集したものです.
人に伝わるようにできるだけ書き直しましたが,それでもまだまだ出来損ないでしょう.
質問や批判があればお気軽にどうぞ.


一橋学園でデッサン講義.宿題を失念していたので素直に申告したら笑って許された.
まぁ宿題をやることが重要な講義ではないのだ(そんなことはない).
前回からの参加者もぼちぼちいるが,まだ教員に作品を評されることで一喜一憂している(むしろ落ち込みまくる) 人もちらほらいる.
そういう人はもう履修しなくなるかと考えていたが,そうではないようだ.
私はあの教室の中では最も技術的にレベルが低く,側から見ると恥ずかしいレベルかもしれないが,私のことだから他人に何を言われようと気に病むことはないだろう.
教員とは対話を通じて,デッサンについての思想やデッサンの哲学(視覚と認識と美術の哲学)についてを吸収できていてとても楽しい.
とてもラディカルに一緒に物事を考えてくれる人で,その態度が気持ちがいい.
きっとプライドが高くて傷つきやすい学生たちを相手にする中で磨かれた社交スキルなのだろう.
でも教員本人も考えることを楽しんでいるはずだ.

先生とは昼休みにも会話をして,樹への太陽光の当たり方を議論したり私の写真の批評をしてもらった.
またデッサンで描くのは質感だけではないという話を聞いた.
一枚の絵の中で同じ質感で描き続けるのではなくて,少し違う技法を使うなどして,視覚システムの予測を裏切ることが面白さを生むのだという.
抽象的にいうなら秩序の中の無秩序が必要なのだと教えてくれた.

さていい加減に本題に入ろう.
午後の講義では、私のデッサン観を変える会話があった.
それまでの私の理解ではデッサンとは,モデルのコントラストが美しく見える状態を書くもの.つまり理想状態に近い状態での光線のシミュレーションをするようなものだと考えていた.
しかし先生はそうではないという.デッサンは理想状態(イデア)を思い描くことではなく,あくまでも目の前の現象を捉えるのだという.
確かに今回のデッサンの対象である木の割れ目は,紙に描いたものほど黒くはないだろう.
だから私はデッサンの対象と紙に描いたものは直接の対応関係がないのではないか.
デッサンの対象はイデアを模倣した擬似的な対象でしかないのではないかと考えていた.
けれども先生はそれ(木の割れ目は,紙に描いたものほど黒くはない)でいいのだと考えている.
なぜならもっとも暗い黒を基準として相対的に色の階調を観察すれば目の前の階調を紙の中に構築できるからだという.
先生はハイデガーやメルロ=ポンティを引き合いにしながらその話をした.
かつての美術史はイデア論的デッサンであったが(例:ギリシア彫刻の模造品を描くなど),コンテンポラリーではイデア論的ではないそうだ.
そのときは私は便宜的に先生のデッサンを現象学的デッサンだと名付けた.(実は先ほどからのイデア論による議論も私が先生の議論を哲学用語再構築したもので精確ではない)

では現象学的デッサンとは何だろうか.
現象学的デッサン単純にモノではなくて現象をとらえなければならない.
モデル(モノ)を見るときに生じてしまう私たちの視覚バイアス(空間や色彩,質感など)を観察しつつ, そのバイアスとどのように付き合っていくのかを考えることにある.
なぜなら視覚バイアスのかかり方ですら時間の中で一定ではないからで.
少し目を動かすだけで,いや,少しぼんやりとだけで,モデルの見え方が前とは変わってしまう.
日差しの変化や微妙な体力の変化だけでもモデルの見え方が変わる.
けれでも私たちはその変わり方に惑わされながらも紙に線を引き,これで正しいのかと自問自答しながら描く.
これが現象学的デッサンだ.モノの見え方が一定でないからこそ,モノと自分自身を観察しながら懐疑することがこのデッサンの本質ではないだろうか.
そうであるならば画家は常に懐疑の営みのなかにいて,まるでモデルは蜃気楼のようにゆらめいている捉えどころのないものなのだ.
恒常的に同じものを観察することはできず.モデルは常に現象として変化する.そして画家自身の視覚システムも現象として変化し続けている.

デッサンをするまではモノが見えるということがここまであやふやなことだとは思いもしなかった.
結局のところ私は自分の脳がデカルト的座標軸の中で距離を測ってそれに基づいて正確にデッサンを描けると信じていたのだ.
しかし承知のように実際には私たちの目から脳を含めたシステムはデカルト的世界を処理するようには進化してはいない.このことを痛いほど思い知った.

かつて哲学徒だったとき,私は現象学を何度も揶揄した.「フッサールは現象学的に見よといったが,その具体的な方法は誰も知らない」と.
しかしひょっとすると私がやっている,というよりも画家がおこなってきた絶えざる懐疑のことを現象学的還元による世界の認識方法と言えるのでははないだろうか.
画家の哲学的懐疑は筆を置くまで終わらない.
先生は冗談めかして,きついので絵をやめたいと言うが,これは画家の耐えざる懐疑に伴う苦しみからくる苦しみだろう.
私はかつて哲学に惹かれ,そして苦しんだ者として,現象学的懐疑を続ける人間に憐れみと尊敬の念を持つ.